革命するには目を閉じろ

令和元年、自分の足で日本を周る。

旅の目標その③

1. 人から与えられた分だけ何かを返す

2. 地理感覚を明確なものにする

3. 創作のためのイメージを豊富にする

 

時間ができたので、今更ながら3について書きますよ。

 

そう言えば、何故使っているカメラがSONY【6758】のRX100なのかについて、まだ答えていませんでしたね。

その理由は、SONYスマートフォン📱搭載カメラが非常に優れているから。小型化するのがそもそも難しい中で高性能なものを作れるのですから、デジカメ📷でも間違いはないと思い購入しました。

今は6型まで出ているようですが、性能としては初期型でも十分なレベルです。私は写真を携帯に移したかったので、1型よりもWiFiが使える2型にしました。パソコンで編集するよりもスマホからした方がメリット多いですからねぇ。値段も今なら手頃な価格に落ち着いていますので、おススメしますよっ。

 

ただ、WiFiを使うにはスマホに「Imaging Edge Mobile」というアプリをインストールしておく必要があります。それが完了していれば、

カメラからスマートフォン転送を選ぶ

→移したい画像にチェックを入れたら決定

スマホWiFiからカメラのWiFiを選んで繋ぐ

→アプリを開くと自動アップロード開始

ってな感じにできて便利だにょ。いぇいv(*ω*)v

 

もし今後カメラのセンスが上がった時は、一眼レフに乗り換えたり、CANON【7751】みたいな別メーカーのを使うかも知れないですが、こいつの操作性の良さを考えると…まだ先になりそうかな?それくらいには選んで正解でした。

まあ選んだ本当の理由が、カメラの名前がMAZDA【7261】のRX-7みたいでカッコいいから✨なんて言えませんしね…もし街で見かけたら興奮しますよ、マジで。

 

さてさて、そのカメラを使いながら旅することと、3の創作イメージを鍛えることに相関はあるのでしょうか。

 

私は最近、あまり知識というものに重きを置かなくなりました。それは知識なんて安いものだという意味ではなく、大事なのはそれだけじゃないと(今更にして)気付いたからです。

なお、一般的に「知識」とは「既知」の領域のものを言いますから、ここでは「知識」を「未知」の対義語として位置付けます。そして知識が「知っている」に通じ、未知が「分からない」に通じるものであるとしましょう。

 

さて、「知識」というのは「科学」によって見つけ出される「真理」であって、発見という結果、もしくは応用することに価値があると考えられます。

まだ知られてないことを見つけること、これには生産性があります。

もう知っていることを更に用いること、これにも生産性はあるでしょう。

 

では、その両方に当てはまらない場合、つまり誰かに発見されていて、かつ自分が利用しないような知識については…価値のない情報として扱う他ありませんよね。

想像ですが、殆どの人が中高で習ったことをもう覚えてなかったり(私がそうなので)、そもそも覚えようとしなかったのではないでしょうか?

だとしたら、そのために費やした時間(授業に補習、試験勉強、人によっては予備校まで)というのは何だったのでしょうか?

はっきり言えば、果たしてそれは教育と言えるものなのでしょうか…?🤔

これだけ知識の詰め込みに無駄が多いのです。ただ正しい答えを紙に書けることにのみ価値を求め続ける=記憶力しか鍛えられないような日本の教育から、本当の価値が生まれるはずありません。明らかに矛盾する結果を生み出しています🌀

 

何故このようなことになったのか?

そうこう考えていると、答え=科学の対極にあるものが欠けているからだと見つけました。

問い=哲学です。問題を立てる哲学を無視し、解答を示す科学だけを重視している状態は、学問として不完全な形と見て良いでしょう。

では哲学とは何なのでしょうか?これは科学の反対と捉えられます。

つまり、答えの反対=問いをもたらすもの。

高校時代を思い返してもそうでした。必死に覚えた人名や単語といったものは、今ではもう頭の中から悉く消え去っています。それらの殆どは語句として存在したのであり、本質的にはもはや問いではなく記憶ゲームでした。知識の応用という要素が抜け落ちている以上、思考ではなく記憶として処理され、そのまま忘れられてしまうのです。

逆に、きちんとした問題に対し解答するために用いた知識は、今も頭に残っているように思われます。記憶という個々のものとは違い、思考には一連の流れがあるので、その質量の分だけ忘れにくいようになっているのでしょう。

 

この問いが如何に単純な疑問であったとしても、その先には科学の追い求める真理と同じ「普遍」が待ち構えていますので、哲学と科学は対極構造にあって一体のものに他なりません。

ですから、「未知」とは「哲学」によって突き止められる「普遍」と捉えられます。それは究明という過程、あるいは説明できることに価値があると考えられる。

まだ分からないことを明らかにしていくこと。

もう分かっていることを述べられること。

 

哲学によって究明され、科学によって発見される。この一連の流れを繰り返しながら、世界は進化してきました。

そしてアインシュタインが言ったように、「知識」という有限のものに対する力は「思考力」として、「未知」という無限のものに対する力は「想像力」として、それぞれ科学と哲学に無くてはならないというわけです。

 

日本の教育がなぜ不十分なのか?

それは生徒に自ら問うことを求めないから。

問いかける興味すらも持たせられないから。

問うには余りにも不自由すぎる環境だから。

 

今まで私が受けてきた教育は、記憶力こそ豊かにしたかも知れませんが、それが思考力と想像力の両方にプラスに働いたとは思えません。結局は全部をバランス良く伸ばしていくしかないのです。

それが大学で変わるかと思いきや、むしろ悪化したようにも思える状況…😓

何故大学が資格のための知識だけ詰め込んで終わりにさせようとするのか、理解できません。それはちょっと前に書いた通り、今の時代なら他人に教わらずとも知識を得ることができるからです。情報ツールを使いこなすことさえできれば、必要なものを必要な時に、効率よく集めることができる。

だとすればですよ…極論ではありますが、もはや専門知識を詰め込むことは誰にでも簡単にできるってことじゃないですか。全員が同じ地点まで到達できるってことじゃないですか。

なら知識量じゃない、他のところで差をつけなければ意味のない時代に来ているってことですよね?思考力なんて既に出来上がっているんだから、新たな問題に対処できるだけの想像力を伸ばしていくべきですよね?

そういった時期に来ていると、私は思うのです。

 

こうやって書いてて、何となく大学の考えが分かってきました。「授業は優秀な学生のためではなく、主体性のない不器用な学生のためにやるものだ」ってところでしょう。

思考力も想像力もない人のために、せめて思考力だけでも提供しなければ…と願った結果だと考えれば、辻褄が合います。確かにそれ以外の人達なら、逆に放っておいた方がちゃんと良い結果を出しそうな気がしますし。

でも入試をパスしているんだから、思考力がないなんて前提で考える必要もないような…?

っと、そういえば私大って一般入試+内部進学は半分くらいしかいなくて、残りの半分は推薦(指定校+スポーツ)みたいになってるようですね。

これは、仕方ない…私立に逃げた私も悪いし、こんな簡単なことに気付けなかったことも、私の想像力のなさを証明するには十分ですね😇

 

さて、大学で想像力が得られないことは分かりました。そして今まで自分自身でその力を伸ばせなかった事情として、全く創作などに手を出してなかったというのが大きいと感じます。自分の中の世界を表現する方法が少なすぎて泣けますね。

一応できるにはできます。ダンス💃とか陶芸🍵とか…絵🖼は苦手で音楽🎼は絶望的ですけれど。

でもその背景には、色んなものを見て来なかったことがあるように思えます。少なすぎる引き出しから同じイメージばかり何度も何度も反復し続けても、新しいものは何も生まれません。新しいものを作るというのは、ゼロから作るのではなく、今まであるものを組み合わせて作るということなんだな〜と、友人に教えられて納得しました。その材料すらも今ではネットで見つけられます。しかし、どうも自分のイメージとは受け取り難く、こればかりは家にいても何にもならないと痛感。

私は運の良いことに、外に出て歩くだけでも情報は沢山入ってくるということを知っていました。しかも人と関われば更に多くの情報が入ってくると言うことも!

 

この旅で得た経験は写真やこのブログとして残り、見返した時には体験した時間とそのイメージを呼び起こすトリガーとして残るはずです。それ以上に、世界というものを広げることで、私の今後の人生における選択肢を増やしておかなければならない。今やっておかなければ、この先の自分には限りなく小さい可能性しか残らない気がする…

 

直感は真実と言います。それに従って生きることが、人生をより良くすると願いたいですね🎯