革命するには目を閉じろ

令和元年、自分の足で日本を周る。

芹沢記念館にて

*1週間前の書きだめです。

 

少し遅れてしまいましたが、芹沢記念館の紹介になります。

 

沼津港の反対側には何かないのかな?と思い、海岸線をふらふらと走っていますと、何やら公園の手前でトーチカみたいな建物を見つけたわけです。

わざわざこの場所にある理由と内容が気になり、丁度建物も小さめでサクッと見れそうだったので、入っちゃいました。

芹沢光治良(コウジロウ)については恥ずかしながら名前も顔も知りませんでした。活躍した時期は川端康成と一緒みたいなので、知っている人は知っているのでしょう。ここにある理由も、光治良の出生地だからだそうです。

↓所在地。我入道という地区にある

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↓玄関。建物ができたのは1970年

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↓1階展示。写真撮影は自由とのこと

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さて、光治良は中々複雑な人生を歩んでいたようです。

幼少期に親が天理教に関わるために家を出て行ったり、東大を出て文官になるも退職してフランスに留学したり、帰ってきて中大で貨幣論を教えたり…

その後は本来なりたかった小説家になるために執筆を始め、それが「改造」という文学雑誌に載ることになり本当に小説家デビューしまうという、まさに文才なくしてできないことをやってのけてしまいました。

(最も、既に高校時代から自分で小説を書いていたらしいので、本人は自分の適性を知っていたのかも知れません)

 

また、留学中に知り合ったフランス人や中国人との交流がずっと最後まで続いていたと説明されています。

支那事変が起こった際には、友人の安否が確認できないため、自ら特派員になって現地に突撃取材することで直接探そうとするほどでした。また普段は多くの手紙をやり取りしていたらしく、フランス語で書かれた光治良とその妻宛の手紙などが多く展示されています。

後年にはフランス政府から日仏文化交流の重要人物として勲章を贈られたり、中国の作家団の訪問を受けたりするなど、その交友関係の深さがよく分かりますね。

↓光治良が辿ったルート

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↓中国滞在中の日記。昔にしては字が読みやすい
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↓中国語で書かれた手紙
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このような経緯によるべくして、交流のある中国人の文学仲間は多かったらしく、巴金を代表とする彼らが戦後に光治良の作品を広めると、中国でも大きな評価を叩き出したようです。中国人の感性が日本人と似ているのかは分かりませんが、総じて光治良の作品が優れていた証拠と考えてよいでしょう。

今までに翻訳されたものの数は少なくありません。最近では「愛と知と悲しみと」が新たに翻訳されたそうで、まだまだ知名度の向上が続きそうですね。

言語学習用に翻訳された光治良の小説
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↓小説内における中国人の描写

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歴史的資料としても、光治良の作品には大きな価値があります。パリ関係の作品には留学中のフランスの様子が細かに描かれていますし、戦地視察の際の記録には写真まで付け加えられているので、当時を考証する際の参考にもなるでしょう。

 

当時の小説家として、光治良はあまりにもグローバルだったかも知れません。光治良のテーマの根幹は「人」ですが、それは他の多くの作品で描かれるような「個人」だけに収まったものではありません。

価値観も文化も常識も違う人間というものに、誰にとっても生々しい結果をもたらすであろう出来事を通すことで繊細に描き、そこでは異邦人という区別などはもはや関係なく、我々と同じ人なのだと見つけられる…という、そんな見方を与えてくれる作品が多いです。

戦争というものが人類共通の悲惨な出来事になった時代に、それを実際に見たり聞いたりし続けた光治良だからこそ、人が共通して抱く感情を見事に表現できたと言えるでしょう。

戦争が起こる理由は相手への無理解でしょうか?だとしたら、私たちの存在とは何で、相手の存在とは何なのかを問うにあたり、光治良の考えは非常に参考になるはずです。

↓相互理解について

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さて、記念館を出て海側に歩いて行くと、光治良に関連した碑が2つあります。

一つは少し高台になっているところにあるので分かりやすいですが、もう一つは少し右に進んだところから、それらしい小道を上がったところにあります。

↓高台にある碑の裏側

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↓小道の上にある石碑
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光治良にとって、この土地は何を与えてくれたのでしょうか。

人は人から与えられ、そして人に与える存在に他なりませんが、一人でいるとなった時に残るのは場所しかありません。特に与えられることで成長する子供にとっては、一人に慣れるほどにその場所から与えられる人間性というものが大きくなるはずです。まさに山で育った人が花粉症にならないのと似ていて、大人になってからではどうにもなりません。

最初の方で述べた通り、光治良は親と長く暮らすことはできず、その後は父方の祖父母と暮らしていたようです。実の両親と接することができなかったことによる何かしらの影響はあったでしょう。それでも作品を通して人に感情を与えることができていたのは、やはり幼少期に親以外の存在から与えられていたからに思えてなりません。

沼津が光治良に与えたものが十分であったことは、碑に刻銘された短い文面からも感じ取れます。

そして子供にとっての環境の重要性について、私も理解できました。あまり人と関わらない傾向の子については特に、その子の感性をよく観察して環境を選んであげる必要がありそうです。

(逆にそれさえ注意しておけば、子は勝手に成長していきます)

 

そんなこんなで、気になった方も是非記念館を訪れてみて下さい。100円の入館料で申し訳ないくらいの体験ができます。1階には小説も置かれていますので、飽きることはありません。

ぜひ沼津の雰囲気を参考にしてみて下さい。

 

最後に、詳しく優しく説明して下さった職員の方々に、お礼申し上げます。